昭和43年4月21日 特別奉修委員 テープ№43-058-B-2
中村良一
信心には、この、物に執着をするという様な心が、大体はね、禁物でございますけれど。同時に、物に執着するといった様な事ではなくて、例えば、過去に良い時代があったというかね。いわゆる、夢よもう一度という訳です。そういう様な、その、過去に、良い時代があった事に執着するといった様なことは、これはもう、本当に、おかげにならない。何時もその、同じ、夢よもう一度じゃなくて、私共は、新たなね、それこそ、夢にも思わなかったような夢を描いての信心でなからなきゃならんのですよね。ですから、例えば、ああなるだろう、こうなるだろうといった様な、一つの、当てするような考え方もおかげにならない。その、当てと何とかは、向こうから外れるという、一つの理があります。だから、おかげと言うものは、そういう、神様はそういう、常套手段と手段といった様なものを踏まれませんですね。おかげと言うものは、必ず、斬新な、いわゆる、本当におかげが実感できる様なおかげにしかありません。ですから、私どもの、新たな夢を持たせて貰って、それに、私共が、一歩ずつ近づかせて頂くところの信心と言うかね、おかげを受けなければならんのですが。
今、あの、御祈念にかかる前に、安藤さんがお届けをされますのに、お知らせを頂いておられます。このご信者さん方が、親先生の手を取り、足を取りして、サービスをしておるというか、奉仕をしておる。その中に、高芝さんも居られる。ところが、なんかビルのような、四階建てか、五階建てといった様な上でのことだそうですが。急にその、地震が起こってきた。それでその、大地が揺れ動いていた訳です。それであの、びっくりして、近所におった、ご信者さん方が、みんなその、親先生の傍におればと言うので、親先生の傍に、みんな集まってきた。ところがその、高芝さんだけが、向こうの方へ逃げられてた。逃げられたところが、はぁとその、家が崩れ落ちて、どうも、下敷きになりなさったじゃろうと言う様なお知らせじゃったち言うのです。これは私は、高芝さんと言う事じゃないと思うですね。高芝さんが、やはり、総代の、まぁいうなら、長のような、代表される方であるから、高芝さんを使われたのであろうと、私は思うのですけれども。けれども、また、そうだけではない、高芝さんを使われたのは、高芝さん自身も考えなきゃならないこと。もう、例えて言うなら、困った問題、難儀な時だけは、親先生、親先生と言う。親先生任せになるけれども。いよいよ、肝心な時に、親先生から離れておる。もちろん、心が離れておるといったような事ではね、おかげにならんと言う事。こここそおかげが受けられる。例えば、今日の御理解で行くならば、表だけは、立派に、親先生の傍におっても、裏の方では、親先生の傍に居らない。目の届く限りは、親先生の信心について行きよるけれども。蔭では、もう親先生の信心について行きよらんという事なんだと思う。
それではですね。何でもない時は良いけれど、いよいよと言う時に、いわゆる、そういう事になっていく。それは、私は、安藤さんが受けられたという事は、安藤さん自身の信心と言う事の過去と言うものを、本当に体験を、まぁ例えば、現在、高芝さんなんかも、まぁいうなら、楽しい難儀ですけれども。難儀が、今一杯この、次から次とあっておる時でございます。こりゃ、安藤さんの体験なんかはもう、高芝さんあたりが聞かれるなら、本当にあの、素晴らしい体験だろうとこう思う。もう、それこそ、大地が揺れ動く様な事を、何回会われたか知れませんもんね。それでもあの、安藤さんのおかげ頂いた事も、いよいよもう、揺れ動く様な時、普通は、そう信心が出来よらんごとあっても、外れておられる様であっても、いよいよの時には、親先生の元に走ってきておられる事ですね。これが、現在の、いわゆる、明光商事が、段々、こう、発展の一途を辿らせて貰っておる。思いもかけないおかげに展開してきておるという元になっておると思う。ですから、高芝さんあたりでも、そこん所の、やはり、安藤さんの、こんな時代もあった、こんなこともあった。けれども、こういう時には、こういう風にして、おかげを受けられたといった様なものを、やはりあの、これは、高芝さんに言うんじゃないけれども。やはり、赤裸々に、お話をなさって、おかげを受けられなきゃいけないとこう思うですね。たいがいな者がですね、本当に、親先生任せと言いよるけれども、いよいよの時に任せ切らんですね。その点、安藤さんは、日頃は任せてなかごたるけれども、いよいよの時には、任せておられるという感じですもん、言うなら。そらもう、本当にそうです。ですから、おかげを頂かせて頂くためには、そういう、例えば、事の出来れるおかげを頂くために、結局、神様の、いわば、間違いなさと言うものを、確信させて頂くためにも、その自信が生れてくる、おかげを頂くためにもです。表もなからなければ、裏も無い。いやむしろ、裏ほど、大事にするといった様な信心からしか、力は生まれてこない。死んどる力は生まれてこない。高芝さんのお夢を、名指して頂いておられるから、如何にも、高芝さんだけの事じゃない。お互いが、本当に、大地が揺れ動く様な時であっても、親先生の元に寄っておれれる信心をですね、一つ頂いて頂きたいと、私は思うです。
今日、今、私、ちょっと、お手洗いに立たせて頂いたところが、あちらの、都忘れが、手洗いのところに差してある。それにその、あの、何ち言うですか、マーガレットですか、白い菊の花に、あれが差してある。それがもう、腐って、白い花だけは、腐ってから、こうしとるんです。もう、あれは本当に、都忘れだけにしたら、どの位品が良い、また、一輪差し的花には、色々なものを併せない方がいいか分からないのに、わざわざ、あれを入れて、しかも、腐ったのを、誰も取ろうとしてない。だから、その白い、マーガレットを、私とって、中の水を替えて、ちょっとの間だけれども、してきたら、その辺が、生き生きとなってきた様にですね。都忘れという事から、私、今日の、一番初め申しました、この、何て言うですかね。現在、合楽の、一つのゴヒレイと言うのは、皆さんが、一生懸命なられるという事と同時にですね。私が、その、いよいよ、こう、色々んなものから、執着を外していきよる。例えて言うなら、現在の、四時の御祈念なんかと言うのは、私が、もういっとき寝たい何かという執着は、全然、捨ててから、捨ててしまったところが、それがもう、楽しゅうてたまらんごとなって来とるとですね、最近。五時の御祈念の時の方が辛かったです、といった様な、おかげを頂いて来た。いわゆる、都忘れ。都に居った時代の事を、忘れられないといった様な事じゃ駄目だ。忘れてしまわなければ。そしてその、幾ら、菊の花のような信心でもですね。もう、しおれた、腐ったような信心は、もう、捨てて行かなきゃいけない。でないと、生き生きしてこない。御神前に出たら、今、その、手洗いで頂いて、私が、させて頂いた、その事を頂いてからね。今の御理解を頂くと同時に、安藤さんが頂かれたお知らせと合わせて、頂いたんです。どうぞ。